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海へ出るつもりじゃなかった

文庫化されてから、ちゃんと読み直す間がなくて、あらためて見比べてみた。

概要

ウォーカー家の五人兄弟は、海外から帰任する海軍士官の父親の出迎えのため、英国東部の湖沼地方に来ている。そこで、小帆船ゴブリン号を所有する青年ジムと知り合いになり、母親の許しを得て、上の四人はジムの帆船で幾晩かを過ごす事になる。ただし、決して外洋には出ないという約束で。

最初の晩はすべてが順調。ところが、翌朝所用で上陸したジムがいつまでたっても帰ってこない。実はジムは交通事故で人事不省に陥っていた。

その間に潮が満ち、停泊させていた船は錨をひきずって漂流を始めてしまった。濃い霧が巻き、やがて日も暮れる。天候も悪化。浅瀬だらけの港内では難破の危険があり、長男のジョンは、ついに船を外洋に避難させることを決意。しかし、長女のスーザンは母親との約束を破ることに激しく抵抗する。しかし、結局ジョンの決断に従い、子どもたちは嵐の夜を切り抜ける。

翌朝、船は対岸のオランダに到達することになり、そこで偶然にも帰任途中の父親と再会。父親の導きで再び海峡を横断し、ジムとも再会、めでたしめでたしとなる。

 

感想

二つを見比べると、同じ訳者ながらかなり手が入っている事が分かる。

また、訳語も旧訳ではかなり無理して日本語にしていたところが、ふりがなを活用しつつ、原語が透けて見えるような工夫がされていて、それだけに、海事用語などはかなり、カタカナっぽくなっている気がする。

「ひき肉入りロールパン」が「ソーセージロール」に替わったり、「ビフテキと焼き肉のプディング」が「ステーキアンドキドニープディング」に替わったり、やはりこの何十年かに、イギリスもずいぶん近くなったということなのか。

船の名前も鬼号からゴブリンに替わっている。

 

父親がジョンにかけてやる言葉

「俺のせがれだな、海の男になれる」

旧「おまえも、やがては船乗りになれるぞ」

 

父親が歌っている歌の歌詞

「撃て、やろうども、撃ちまくれ」

旧「吹け、やろうども、口笛を」

このあたりから、この物語では特に重要な父親のイメージに、微妙な差が出ているような気がする。

同時に、巻末の解説で神宮輝男は、原作の発表された1937年という、非常に微妙な時代と、戦争の影をそこに見いだして指摘しているが、そういう意識が翻訳にもあるいは反映しているだろうかと考える。

私は以前読んだときには、この最後の最後にすべてを解決に導いてくれる理想の父親像、いわば水戸黄門的な父親が印象に残っていたのだが、実はもっと現実の世界に身を置いている人だったのかも、と思い直させるところがあった。

中佐という階級は、駆逐艦クラスならば艦長になるんじゃないかと思うのだが、以前はもっと超然とした地位のような気がしていた。今回の父親はもっと現場の人間のような気がする。つまり、これから始まる大戦ではきっと前線で戦ったであろう人材なのだと。

ジムのような若者もかり出される。この時代、海軍に入る、船乗りになる、というのはそのままそういうことを意味していたはずだ。

オランダという国も、ここから数年後、ナチスに蹂躙される。木靴だの、犬の引く馬車だの、お人形のような女の子たちだのというものをひっくるめて。

そういう事を以前読んだときにはあまり意識しないですんだのに、今回はなぜか、意識せざるを得なかったのは、なにがそこに影響しているだろうか。

 

まあ、それでなくとも巻おく能わずという本であることは間違いないのだが。

高学年以上。文句なくすばらしい本である。