児童書評価のページ

新刊・古典とりまぜて児童書を評価します

写真物語 あの日、広島と長崎で

 

写真物語 あの日、広島と長崎で
 

原爆投下から25年の被爆者の姿を収めた写真集『長崎の証言』が再出版されるというニュースがあり、本書を手に取りました。
1945年8月9日の翌日、長崎の爆心地近くへ入った写真家山端庸介の記録を中心に、広島と長崎への原爆投下直後から数か月後の被爆者や街の様子が、モノクロ写真や絵でまざまざと示されます。
表紙の4歳の子の問いかけるような鋭い眼差し。中の写真では隣に立つ母親の方が呆然としているように見えます。

熱線により一瞬にして焼死した子どもの顔は濃いピンク色にはれ上がっていた。真っ黒に焼けこげた人々の手は空をつかむように固まっていた。親を見失い傷を負った弟を背負う少年。傷の手当てを待って横たわる幼い子どもたち。
焼き尽くされた市街地の様子も衝撃ですが、こうした被爆者の姿から目を背けてはならないのだと改めて強く思います。このような悲惨な写真をいつから子どもに見せるか迷うかもしれません。6年生になると戦争について学びます。大人も一緒に見て話すことが大事だと思います。  (は) 

子どもたちへ、今こそ伝える戦争 子どもの本の作家たち19人の真実

 

 子どもの本の作家19人の戦争体験がありのままに語られている。戦争になったら暮らしはどう変わるか、学校に行けなくなり中学生以上は学徒動員で働かされるなど、子ども自身がどうなるかを実感できる。

「戦争なんだからガマン」と自分に言い聞かせ続けた立原えりかさん。軍隊の全員行動のためにと学校で左利きを矯正された山下明生さん。当時「命は鴻毛(鴻の羽毛)よりも軽い」と教えられたという杉浦範茂さん。

そんな中、森山京さんが心の支えとした石井桃子訳『プー横町にたった家』は戦中の1942年に出版されたこと、戦争批判の替え歌を大声で歌っていた子ども文化を称える田畑精一さんの話は小さな希望。また、かこさとしさんの文章は、高校生の時にお世話になったお医者さんとの別れをユーモアと深い悲しみでつづっている。
中でも迫力があるのは、「戦争賛成」と題された田島征三さんの文章。3歳の時に機銃掃射の弾丸を浴びながら逃げ惑った体験も壮絶だが、どんな時でも「戦争反対」を貫けるか、身近な人の利害が関わってもどうかと突きつける。人間の心や判断の弱さ危うさをわかったうえで、それでも貫ける強さを体験者の言葉から受け継ぎたい。 (は)

うしろの正面だあれ

 

うしろの正面だあれ (フォア文庫)

うしろの正面だあれ (フォア文庫)

 

 1933年(昭和8年)に東京の下町、墨田区(本所竪川)で生まれた著者の自伝的な作品。5代前から続く竿師(釣り竿つくり)の家で3人の兄に続いて生まれた初めての女の子で後に弟が生まれる。路地で遊んだ思い出、商店街の活気、家でのささやかなお手伝いなどの日常が活き活きと描かれている。三味線の習い事に行かされるが、上手にできずに叱られてばかりなのが辛くてさぼったのがバレてしまい大騒ぎになるエピソードなど、今の子でも共感できるだろう。音痴だからダメなんだと落ち込む香葉子に、お母さんがハーモニカを教えて自信をもたせてくれるところなど、こんなお母さんがいたらいいなぁ、とあこがれる。だが、戦争が徐々に激しさを増し、暮らしは少しづつ変わっていく。ついに香葉子も縁故疎開で沼津にいる父の妹のおばにあずけられることになった。おばはとてもやさしかったが、東京を3月10日の大空襲を襲う。祖母、両親、3人の兄と1人の弟は必死で逃げるが、生き残ることができたのはすぐ上の喜兄一人だけだった。自分だけがなぜ生き残ってしまったのかと激しく自分を責める兄。わずか14歳の兄は自分で仕事を見つけて働き始めた。敗戦で叔母の家は仕事を失い、香葉子は都内の大叔母の家にあずけられるが、自宅を失ってバラックに住み食べ物にもことかく過酷な暮らしが待っていた。

作品の大部分は、幸せな子ども時代の暮らしをていねいに語っているが、だからこそ兄以外の全ての家族も家も失った悲痛な思いが際立つ。実直で善良な下町の家族を、こうした悲劇に追い込んだ戦争。もっと戦争が続いていれば、兄たちも徴兵されて、加害者になったかもしれないとも思えばさらに恐ろしい。ただ「かわいそう」だけではなく、どうすればよいのかきちんと考えたい。

ヒロシマをのこす 平和記念資料館をつくった人・長岡省吾

 

 今は世界遺産にもなっている広島の平和記念資料館は、いち地質学者による石拾いが始まりだった。
広島文理科大学(現広島大学)で地質学を担当していた長岡省吾。1945年8月7日、原爆投下の翌日、爆心地近くで表面に無数のトゲのある石を見つけた。600度以上(実際は3000度を超えた)の高温で溶けたものとみた長岡は、この現象を解明しなければと、被爆した石や瓦、コンクリート片を集め始める。周囲に奇異な目で見られながらひたすら石拾い。同時に原爆の熱線によって道路などに残された”死の影”の方向と角度を測定し爆心地の割り出しも行った。地質学者としての使命感はやがて、生き残った者の責任としての遺品収集へと変わっていく。こうして収集された膨大な被爆資料は、1950年8月6日職員長岡のみの原爆記念館に展示されてスタート。1955年には、丹下健三設計による平和公園の中心に広島平和記念資料館としてオープンする。しかし、同年東京では原子力平和利用博覧会が開かれており、翌年には広島でしかも長岡渾身の資料館を会場に行われる。その後も、原子力平和利用資料と被爆資料の併存展示、美術館への転用話、原爆ドームの存亡の危機などを乗り越え、平和記念資料館は現在も、原爆の負の真実を知るために世界中の人々が訪れる施設として存在し続けている。
長岡省吾の偉業だけでなく、原爆投下前後の市民のドキュメントが胸に迫る。また、コラム解説(広島と長崎の原子爆弾の違い、放射線被害の恐ろしさなど)や、資料写真も豊富でわかりやすい。中高生もぜひ読んでほしい。被爆国(第五福竜丸事件も含め)なのに原子力の平和利用という矛盾、国家の圧力、遺構を残すべきという考えの一方悲惨な状況を思い出したくないという市民感情など、考えることはたくさんある。(は)

ヒロシマのいのちの水

 

ヒロシマのいのちの水 (えほんのもり)

ヒロシマのいのちの水 (えほんのもり)

  • 作者:指田 和
  • 発売日: 2009/05/01
  • メディア: ハードカバー
 

 広島の原爆慰霊碑に水を供える活動をしている宇根利枝さん(2009年9月当時91歳)による被爆体験談。子どもに語りかける口調が重くなくて受け入れやすい。
宇野さんは原爆投下時、爆心地から2、7㎞の託児所で先生をしていた。行方のわからなくなった子どもを探すため、水をほしがる人たちの必死な願いをふりきってしまったことを悔やみ、戦後1955年から原爆献水供養を始めた。寺の境内に流れる滝やわき水をくんで、県内120か所はあるという慰霊碑をめぐる54年にわたる活動を「あっという間」と話し、読後感が明るい。読んであげれば低学年から。  (は)

なぜあらそうの?

 

なぜあらそうの?

なぜあらそうの?

 

 字のない絵本。1匹のカエルが野原で1輪の花を愛でていると、ネズミがやってきて突然その花を奪った。カエルは仲間を呼んでそのネズミを追い払い、辺り一帯の花を独占して喜ぶ。ネズミは今度は、古靴でつくった戦車でやってきてカエルたちを攻撃する。それに対抗しカエルたちは・・・と、お互いの攻撃がどんどんエスカレートして、最後は焼け野原に1匹ずつ残ったカエルとネズミの複雑な表情。戦いの最中はどちらもにっこり微笑むような表情で進軍していくさまが怖い。小さな花の取り合いという理不尽なきっかけが大きな争いになってしまう展開が、子どもにというより大人や権力者へのメッセージというべきか?1938年生まれの作者は、幼い頃ロシアで戦争を体験した。  (は)

ガラスのうさぎ

 

ガラスのうさぎ (フォア文庫)

ガラスのうさぎ (フォア文庫)

  • 作者:高木 敏子
  • 発売日: 2005/06/01
  • メディア: 単行本
 

 著者の壮絶な戦争体験の物語。1945年3月10日東京大空襲で母と2人の妹を亡くし、8月5日疎開先の神奈川県二宮町の空襲で父を亡くす。兄たちは従軍していたため、たった1人で父の火葬と葬儀の手続きをしたときは、まだ12歳。戦後身を寄せた仙台の親戚の家では働かされ詰めの辛い生活。終戦の翌年2月、逃げるように東京両国に戻ってようやく兄と水入らずの暮らしを取り戻す。最後は、1947年5月3日に施行された日本国憲法第9条の文面が希望をもって示され結ばれる。
小学生の時に読んだフォア文庫(1979年初版)を読みなおしました。兄のおさがりのランニングシャツに花模様を刺しゅうしたのを、小学校の担任にとがめられ泣きながら切り取る場面は、確か映画で見た時の強い印象がよみがえった。タイトルにあるガラスのうさぎは父の作品で、東京大空襲の自宅跡でぐにゃぐにゃに溶けて見つかったが、それ以外の場面で特に出てくることはない。   (は)